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2016.01.17 Sunday

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東北の子たちにこけしを

2012.05.19 Saturday

伝統こけしは東北で生まれて全国に散らばっていき、こけしスマイルをひろめてきた。もしあなたの家にあまっている伝統こけしがあったら、おもちゃや人形を流されてしまった東北の子どもたちに送ってあげよう、と沼田元氣が呼びかけている。

こけしをみると
あなたを思い出す
こけしの笑顔は
あなたの笑顔
こけしが笑うと
あなたも笑う
あなたが笑うと
こけしも笑う
あなたの生まれ
育った東北は
こけしのふる里
こけしのふる里は
笑顔のふる里
おだやかで
やさしい
笑顔のふる里

----- 沼田元氣

 kokeshi*.jpg


詳しい情報は彼のウェブページをお読みください。



沼田元氣についてはこのブログでも何度も紹介しました。
そちらも参考までに。





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アートワークス展 "Peace by Piece"

2011.08.14 Sunday

「平和」という言葉は、俳句の世界では夏の季語らしい。
ふたつの原爆が投下され、敗戦した8月に由来するのだろう。
年に一度だけでも平和について思いを馳せる季節があるのはいいよね。

88年の8月にわがアートワークスは "Peace by Piece" という展覧会を開いた。

ちょうどCDが普及し始め、レコードが消えていこうとしていた頃だった。
さみしいことだった。ぼくたちの暮らしの中にめくるめくアートを連れてきてくれた、あの30センチLPレコードのジャケット自体へのオマージュ展をやりたかったのだ。

100人の若い芸術家たちに白いレコードジャケットを渡し「平和」をテーマにした作品にしてくれるようお願いし、銀座グラフィック・ギャリーに集めた。

    peace by.jpg

ポスターやハガキ用のピースマークは5分割して、5人の作家に担当してもらった。
上田ミユキ、タナカノリユキ、寺門孝之、ムラカミヤスヒロ、谷口広樹。
"Peace by Piece"の文字は荒木経惟が書いてくれた。


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平和を考える週末。
この週末限定でオノ・ヨーコも "BedPeace" の貴重な映像を公開している。




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自粛しなかった秋

2011.04.20 Wednesday

東北大震災があって、旅行や催事を自粛する人が多いらしい。日本中が自粛モードに包まれるというのを以前にも一度見たことがある。
昭和天皇の容態が悪化した1988年の夏から冬にかけてのことだ。マスコミは連日「下血の量」を報道していて、秋祭りや運動会まで自粛されていた。

その年の秋にわがアートワークスは新宿コニカプラザで展覧会をやることになっていた。ギャラリー側から「レセプションパーティーは自粛しますか?」と打診があったので「芸術家は自粛(self-restraint?)なんてしないものですよ」と答え、パーティーを実施して会場で沼田元氣と井口真吾がそれぞれパフォーマンスをやることも決めた。

数日後、沼田元氣がプランをもってやってきた。興味深かったのでOKしたが、ギャラリー側には当日まで内容を伏せておくことにした。ストップがかかるのを恐れたからだ。
沼田元氣がやったのは「お葬式パフォーマンス」だった。

黒白の幕が張られた会場に棺が置かれている。こんな会話が響いてくる。
「なあ、あんた、えらい今日カラス多いことないか?」
「ああ、そうやな」
「また誰ぞ、死んだんやろか」
小津安二郎の『小早川家の秋』の中の台詞だ。
喪服姿の女性が花を抱えて登場し、着物を脱いで踊りはじめる。
棺からは天使姿の沼田元氣が現れる。
パフォーマンスはそんなふうに始まった。

最後は警官がふたり会場にきて、全裸で踊る女性を連行していった。
(もちろんこの警官もパフォーマーだった)

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あのパフォーマンスは『フォーカス』という週刊誌が報じてくれただけで、大手のメディアからはまったく無視された。
年明けに昭和天皇は「お隠れ」になった。
ギャラリーにいてくれた人たちとともに、去っていく昭和という時代へのいい「はなむけ」ができたと思う。

ヌマゲン、あのときのビデオをそろそろ公開しませんか?


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アートワークス#56 岡本太郎

2011.03.07 Monday

「日本の芸術家の誰かに捧げる号を作りたいけど、誰がいいだろう?」と、アートワークスの常連たちに声をかけたのは1990年のことだった。圧倒的に多くの人たちから「岡本太郎」という返事があった。岡本さんの家は事務所から近かったし、訪ねていくと快く了承してくれた。岡本さん自身もこの号に参加してくれることになった。

アートワークスは150部限定のマガジンで、すべてオリジナル作品で構成されている。
岡本さんの作品は布のシルクスリーン。鉄板にガラスを貼った作品もあるし、タロー人形のプラモデルもある。木版画からオリジナルプリントの写真まで、まさに「爆発的な」号になった。こうやって写真で並べてもオリジナルの手触りが伝えられないのが残念だ。
25人の参加作家のうち、10作品を紹介したい。

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作家とタイトルは上から、
井出貴久/表紙  岡本太郎/爆発
大房真一/「痛ましき腕」との出会い  谷口史朗/フラワータワー’90
一瀬晴美/私の爆発アート  武藤佳世/べろ出し太郎  
中ザワヒデキ/芸術と人生  安藤博信/するどさ
沼田元氣/ヌマゲンからの御土産  
ほうとうひろし・長谷部ひとし/レッド・キング

「岡本太郎号」が完成したときには参加作家たちが集まって、岡本さんと平野敏子さんを囲む食事会を開いた。岡本さんは人生をスローダウンさせはじめていた時期だったけど、あの巨人と出会い、接触した若い芸術家たちの中にどんな化学反応が起きたのか、その後の作品をたのしみに見ている。


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岡本太郎さん

2011.01.07 Friday

1996年の正月に岡本太郎さんの会社から届いた年賀状には、気になることが書かれていた。岡本さんの長年のパートナーである平野敏子さんが岡本さんの養女になって、岡本敏子になると書かれていた。いったい何があったんだろう?

それからわずか一週間後の1月7日の夜。ぼくは事務所でひとりで仕事をしていて、岡本太郎さんが亡くなったという連絡を受けた。驚いて事務所を飛び出た。岡本さんの家までは1分もかからない。家の周りはもうマスコミが囲んでいた。家に入ると、喪服姿の日本美術界の長老たちでいっぱいだった。ジーパン姿のぼくはあきらかに場違いだった。
おろおろしていたぼくを見つけて、敏子さんがこっそり手招きしてくれた。
階段を上がっていく敏子さんについていくと、3階の部屋に案内してくれた。あの家に3階があることをはじめて知った。
3階の部屋のベッドで岡本太郎さんが眠っていた。おだやかな寝顔だった。

「人は恐怖から逃れることはできない。でも恐怖と仲よくすれば結構楽しくやれるぞ」

敬愛する岡本さんの作品からぼくが受け取っていたメッセージだった。
岡本さんとそんな話をしたことは一度もない。交わした会話は野球のこととか近鉄バファローズのことか、他愛もないことばかりだった :-)
生命の歓喜を讃え続けた岡本さんが永眠しているのを見るのは、不思議な気持ちだった。ほんの短い時間だったけど、岡本さんとぼくをふたりきりにしてくれた敏子さんには感謝している。

敏子さんはその後あの家を改造して「記念館」を作り、メキシコから壁画『明日の神話』を日本に帰郷させ「私の役割は終わりました」とばかりに、2005年に亡くなった。

         taro*.jpg

この写真はアートワークス#56岡本太郎号(1990)の表紙。撮影は井出貴久。
晩年の岡本さんの穏和な表情がいい。
今年は岡本太郎の生誕100年になるそうだ。
次回の日記ではアートワークス#56に寄せられた作品を紹介したい。


                        (続く)


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第一回アートワークス展

2010.04.28 Wednesday

     


第一回アートワークス展(86年)のポスター。
<A>の文字を描いてくれた沢田としきさんが、昨夜亡くなったそうだ。
詳細はまだ何もわからない。
音楽が大好きな画家だった。

ご冥福を心からお祈りします。

<A>沢田としき <R>井出貴久 <T>真鍋太郎 <W>板谷充祐 <O>加藤節子 <R>松本小雪 <K>太田螢一 <S>伊藤桂司







Earth Day

2010.04.18 Sunday



アースデイのイベントが各地で開かれているようだ。

1987年の今ごろの季節、わがアートワークス・コミッティは「Earth Works Party」なるものを開いた。
東京FMホールでの4日間のイベントだった。100人以上の若い芸術家たちに「地球上に永遠に残したいもの」を作品化してもらい、それらを直径3mの地球儀に貼り付けて会場に展示した。
<EARTH>には<ART>が隠れている、と言いたかったのだ。

巨大な地球儀がグルグルと回転する会場で、ミュージシャンや芸術家たちがパフォーマンスを繰り広げた。沼田元氣は偽一万円札をバラ撒き、全裸のストリップ嬢を紹介した。近藤等則はトランペットソロで高価なスーパーウーハーをぶっ壊し「なぜ科学技術は芸術活動についてこれないのか」と叫んだ。あがた森魚と鈴木慶一のライヴはステージも客席もみんな60年代のファッションだった。鈴木慶一は"I don't believe you"というディランの有名な台詞で歌いはじめた。

アースデイとは一体何なのか、という説明から始めるしかなかった23年前の日本で、そんなことをやっていた若い芸術家たちの集団がいたことを知っておいていただきたい。

    

製作中の地球儀の前で疲れ果てているぼく。












だいじょうぶ、勝新太郎さん。

2010.01.21 Thursday

        

勝新太郎さんは92年にぼくがやっていた『アートワークス』に参加してくれた。
ちょうどドラッグ所持で逮捕され、拘置所から出てきたばかりの頃だった。
週刊誌やワイドショーが大騒ぎしているとき、ぼくは気になる記事を読んだ。勝さんが独房の中で急に絵を描きたくなって、でも材料が何もないので、身近にある醤油とかチョコレートを使って絵を描いた、という記事だった。
その絵を見たい、と思った。芸術の原点のような話だったからだ。

連絡先を知りたくてデーブ・スペクターに尋ねたら、彼も週刊誌の対談を申し込んだところ「ギャラは100万円」と言われて、諦めたということだった。
『アートワークス』はノーギャラなのだ :-)
でもとりあえず「絵を見せてください」という手紙を勝さんに書いたら「会いましょう」という返事がきた。

六本木の勝さんの事務所を訪ねたら、5枚の絵を見せてくれた。
すべて、独房の中の、あるいは独房の窓から見える風景だった。すごくいい絵だった。
ぼくは持参した『アートワークス』を見せて、これに参加してほしいというお願いをした。これは非営利のアート活動であり、毎号15人から25人のアーティストがそれぞれ150点のオリジナル作品を作って、限定150册の本を作る。アーティストはそのうちの一冊を貰えるだけで、全員ノーギャラであるという話もした。
「面白い。やろう」と、勝さんは言ってくれた。



独房の絵は5枚しかないので、それぞれ30枚ずつカラーコピーして150点の作品を作ることにした。絵だけじゃ悪いから、と勝さんは即興で一篇の詩を書いてくれた。

数日後、たくさんのコピーを集めて再び勝さんの事務所で作品の仕上げ作業を手伝った。床のカーペットにふたりで座って、ナンバリングしたり印を押したり、絵を台紙に貼ったりをした。
「作品のタイトルはどうしましょうか?」と聞くと、
「仏陀に会った部屋、だな。ブッダ・スティックって言うじゃないか」と、すぐに答が返ってきた。そんな話をしながら一緒に作業をしているとき、勝さんが突然こんなことを聞いてきた。
「あんたは、壁にぶつかったときは、どうする?」
驚いたけど、こんなふうに答えたと思う。
「ぼくは、がむしゃらに壁をよじ登って越えていくってタイプじゃないので、たぶん壁に寄りかかってひと休みするでしょうね」
勝さんは「俺もそうなんだよ」と可愛く笑った。



勝さんの作品は、『アートワークス』の第65号に収められた。
結果的に、あれが『アートワークス』最後の号になった。

その翌年ぼくは『だいじょうぶ』という本を書いた。この本には、
「壁にぶつかったって 大丈夫」
というくだりがあるが、あのときの勝さんとの雑談にインスパイアされたものだ。


ニュー・グリーティングブックスに『だいじょうぶ』が加わりました。




アートワークス展『R.I.P.』(1987)

2009.07.06 Monday

                             

1987年の夏に展覧会を開くことになった。
かつて世界を魅了して今は天上にいる人たちを追悼する本を若い芸術家たちに作ってもらい、一堂に展示するという企画だった。
この年のはじめにアンディ・ウォホールが急逝したこともきっかけだった。
5月頃に画家や写真家たちに声をかけはじめて、結局150人のアーティストたちが150人の人たちに捧げるオリジナル本を作ることになった。
展覧会のタイトルは『R.I.P.』。Rest In Peace(安らかに眠れ)とした。

忙しく準備をはじめたら、不思議なことが起きはじめた。著名な人たちの訃報が次々と届きだしたのだ。森茉莉、フレッド・アステア、石原裕次郎、平沢貞通、澁澤龍彦、岸信介などなど。追悼する相手を他から石原裕次郎に変更したアーティストもいた。
(縁起でもないことをやってるのかも知れないな)と思ったりもしたけど、8月の3週間、ギンザ・グラフィック・ギャラリーで無事開催、過ぎ去った「時代の顔」が150並んだ会場には多くの人たちがやってきてくれた。



あの8月は、父親が入院していたので、ぼくはギャラリーと病院を行ったりきたりしていた。そして『R.I.P.』展が終了した3日後に父は他界した。

昨日、石原裕次郎の23回忌が盛大に開かれたというニュースを聞いて、1987年の面妖な夏のことを思い出した。

正雲氏と笑雲氏

2009.06.16 Tuesday

正雲氏と笑雲氏は、名前が似てるけど血縁関係はない。
「正雲」は、金正日の息子で後継者として見られている人物。
「笑雲」は、わが友・北山耕平がmixiで名乗っているハンドルネームだ。

正雲氏はうんと若い頃の写真しか入手できないようで、メディアが困っているらしい。
笑雲氏の写真も、彼が若い頃のものしかぼくは持っていない。

  

20年以上も前の写真だし、無許可で公開してしまおう。
左からぼく、イラストレーターの広田氏、笑雲氏、スペクター氏。
高樹町にあった店ロータス・カフェ(旧クーリーズ・クリーク)で。
アートワークスの創刊パーティ。



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プロフィール
本名・長野眞
フライ・コミュニケーションズ代表

1948年生まれ。1971年上智大学を卒業後、新聞記者、コピーライターの仕事を経験し、シカゴに留学。帰国後「日本国憲法」(小学館)を共同編集したことで本を作る楽しさを知り、北山耕平とともにフライ・コミュニケーションズを設立。斬新でユニークなアイデアと感性で、数多くの作品を企画、編集、執筆する。2009年世界にたった一冊の本をつくる「ニュー・グリーティングブックス」のHPを開設。10年間横浜の小さな森の中で自然とともに暮らし、現在は鎌倉の海辺で閑かな日々を過ごしている。
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