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2016.01.17 Sunday

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ゾンビ復活

2009.08.31 Monday

総選挙の夜、選挙特番を見ていて背筋が寒くなった。
真夜中すぎになって、落選したはずの自民党の大物たちが次々に復活してきたのだ。
与謝野馨、町村信孝、野田聖子、小池百合子、武部勤、伊吹文明などなど。
墓場に葬ったはずの死者たちが甦ってきた。



なんなんだろうね、この制度。比例復活?
いずれ廃止されるに違いないけど、廃止されるまでの間はぼくはこれを「比例復活制度」ではなく「ゾンビ復活制度」と呼ぶようにしよう。

グッド・モーニング

2009.08.30 Sunday

「おはようございます」
「ごくろうさま」
投票所の受付や立会いの人たちに、なぜかごく自然に優しい声で挨拶をした :-)
とても澄みわたった心で、投票をしてきた。

   

投票所だった旭小学校の校舎と青空。
2009年8月30日7時25分。
待ちきれずに早朝から投票にでかけた、証明写真。

時代は変わる

2009.08.26 Wednesday

 


泳ぎはじめた方がいい
でないと
石ころのように沈んでしまう
時代は変わっていくのだから

-----  ボブ・ディラン
The Times They Are A-Changin'



時代が大きく変わるのを目撃できる、そんな週末になりそうだ。


写真は幕末、文久3年の遣欧使節団。
スフィンクスの前で記念写真を撮るサムライたち。



夏の日、3人の美女がやってきた。

2009.08.21 Friday

ぼくよりずっと年若い友人たちが遊びにきてくれた。
遊びにきてくれたと言うより「南風椎はまだ生きているのか」を確認しにきたのかも知れない :-)
おいしいカレーとおいしいピクルスとおいしい酒を持ってきてくれた。

櫻井砂冬美さんは画家。大矢レンさんは画廊のキューレター。嶋裕子さんは舞踏家。
それぞれ表現のカタチは違っても「正直にやっていく」というビッグ・アートを実践している人たちなので、会話は刺激的だった。

「料理をする」「皿洗いをする」「ベランダで植物を愛でる」「絵を描く」「パーティをやる」「恋をする」「恋を終わらせる」「踊りにいく」「トゥィッターをやる」などなど。

みんな最近のぼくには欠けているものばかり。教わることばかり。

  

写真はイメージです :-)


Go, Ya!

2009.08.19 Wednesday

         

縄文庵の軒先に、風鈴と一緒にゴーヤーがぶら下がっている。
こんな細い蔓にこんなデカイものができるんだ。
今年はじめて栽培したので種まきが遅れてしまい、遅い収穫になっている。
ぼくは農作業を何も手伝わなかったので遠慮していたのだけど、今週一本もらえることになった。はじめてのゴーヤー料理。チャンプルーだけじゃなくいろいろあるらしいので、研究しなきゃ。採れたてだと苦みが少ないという噂もあるが、ほんとうかな?

終戦記念日

2009.08.14 Friday

おととい、隣の縄文庵の囲炉裏端で3人の大先輩たちと酒を飲んだ。
3人とも80才代で、そのうちのひとりKさんがこんな話をしてくれた。
「今日8月12日は御前会議で降伏が決まった日なんですよ。だから実はぼくは15日の玉音放送以前に日本の敗戦を知ってました。決まった12日にすぐ玉音放送をするべきだった。そうすればその後の3日間で命を落とさずにすんだ人たちがたくさんいたはずですよ」
戦争経験者が3人もいるのだから、ぼくも質問をしてみた。
「あのとき、戦争が終わって喜んだ人たちと戦争に負けて悲しんだ人たちとでは、どっちが多かったんですか?」
なんだかマヌケな質問だったのに、Dさんが答えてくれた。
「うれしいとか悲しいとかじゃなかったな。ずっと鬼畜米英と教育されてきた連中が上陸してくることになったんだから、これから一体何が起きるのかわからない不安と恐怖だらけだった」
ほかのふたりもうなづいていた。

       

夕べ真夜中すぎに目がさめてTVをつけたら『父親たちの星条旗』という映画が始まった。
硫黄島の山頂にアメリカ兵たちが星条旗を立てようとしているあのあまりにも有名な写真が実際はどのように撮られたのか、あそこに写っている兵隊たちがその後どのようにして「アメリカの英雄」にされ、戦争に利用されたかを描いていた。
知らない話ばかりだったので、夜明け近くまで食い入るように観てしまった。

     

あの戦争では日本にも似たような「英雄」がいた。
中国で蒋介石の陣地への突破口を開くために、3人の日本兵が爆弾を抱いて鉄条網に突っ込み、壮烈な爆死をとげたといういわゆる「爆弾三勇士」だ。
歌や映画や歌舞伎にもなって日本中を熱狂させたらしいあの話が、実は戦場での事故死を美談に変えてしまった新聞記者の作り話だったということをぼくが知ったのは、ほんの数年前のことだ。

「戦争が生む最初の犠牲者は、真実だ」とはよく言われることだが、ほんとうのことがみんなにわかるまでにはほんとうに長い時間がかかるのだね。

明日は終戦記念日。

雨垂れ

2009.08.11 Tuesday

もう起きてお茶を飲んでいたけど、朝5時すぎ、大きな地震があった。揺れがとまった数秒後に、連動していたように土砂降りになった。けたたましい朝のはじまりだった。

このサンルームは横殴りの強い雨のときは、天井の一部から少し雨漏りがする :-)
ふだんの雨なら何も起きないので、修繕もしていない。
今朝もそうだったが、壁を伝ってきた雨垂れが下に落ちてきて床を濡らすので、大きめの空きカンを置いておく。しばらくするとポタンポタンという音が聞こえてくる。

        

勝新太郎が監督も務めた映画『座頭市』(89年)に印象的なシーンがあった。
宿屋で浪人者(緒形拳)と相部屋になった座頭市が「赤」という色はどんな色なのかを、浪人に質問する。浪人は天井から雨漏りがしている場所に座頭市を連れていき、畳に茶碗を置いて雨垂れの音を聞かせてやる。「これが、赤だ」

想像力をかきたてられる話だったな。
ぼくだったら盲人にどうやって「赤」を説明するんだろう?

ジェリー・ガルシアが死んだ日

2009.08.09 Sunday

・・・・「九五年八月九日、きみはどこで何をしていた?」
今でもデッドヘッドが新しく知り合ったヘッドによく聞く質問だ。
ぼくはあの日(日本時間の八月十日)は鎌倉の海辺の知人のアパートにいた。その夜の花火大会のために前夜からその部屋に泊まりこんでいたのだ。朝、友人のデイヴ・スペクターが電話をしてきて「ジェリー・ガルシアが死んだよ」と教えてくれた。
新聞には一行も載っていないし、テレビのニュースでもやらない。その部屋にはパソコンがなかったのでネット接続もできなかった。デイヴがネットで見つけた記事や情報を一日中FAXで送り続けてくれた。ボブ・ディランがジェリーを追悼して「この喪失感は日に日に大きくなっていくだろう。この欠落を埋めるものは何もないからだ」と語っていたのが胸にささった。その日デイヴはアメリカ・オンラインのデッド・フォーラムにぼくの名前で「1000の風」の英語詩をアップロードしてくれていた。死者からのメッセージであるこの詩をぼくはひと月ほど前に翻訳出版したばかりだった。あんな本を出すからこんなことになってしまうんだ。
ジェリーに会ったときに彼が言っていた「九五年が特別な年だってことは知ってるよ」という言葉も、まったく別の意味で繰り返し思い出した。デッドヘッズが信奉するシンクロニシティ(あるいは意味深い偶然)というやつだ。・・・・・

『スケルトン・キー グレイトフル・デッド辞典』(南風椎訳/工作舎)
「訳者あとがき」より

         

Photo/ 南風椎とジェリー・ガルシア(12/19/93)

14年前のあの日の夜、花火大会が終わったあと、先輩ヘッドであるムロケンがアパートに立ち寄ってくれた。小一時間ほどムロケンもぼくもほとんど何も語らず、黙ったままデッドの音楽をかけデッドの音楽を聴いた。

「どうやっても彼を引き戻すことはできない。彼は行ってしまった」
("He's Gone")

「泣くんじゃない。もう泣くんじゃない」
("Bird Song")

「天国の眺めは美しいけど、できればぼくは君たちと一緒にいたい」
("Standing On The Moon")

などなど。言葉は何もかわさずにジェリーの歌声だけを通してムロケンととてもいい会話ができた思い出がある。

あの日のそのアパートの部屋の一角。
自分の部屋でもないのによく使っていたので、デッド関連のものがたくさんあった。
一カ所に集めて花を供えたら、仏壇のようになってしまった。




台風ハチ公

2009.08.07 Friday

 

台風が発生するとアメリカでは名前をつける。
「ベティ(Betty)」という名前の台風は「B」がアルファベットで2番目の文字なので、台風2号であることがわかる。「カティリナ(Catilina)」というのは台風3号だ。

日本でも台風に名前をつければいいのに。
今年の台風1号は「台風イチロー」台風3号は「台風三平」とかね。そうすればぼくたちの人生や思い出は、彩りや深みが増すと思う。
「ジェーン台風」というのはたぶん進駐軍時代に名づけられた台風だ。「J」はアルファベットで10番目なので、台風10号だったのだろう。もしあれがたんに「台風10号」と呼ばれていたら、何十年もたって『稲村ジェーン』のような映画が作られるヒントにはならなかったはずだ。

しかしこんなことを提案すると「台風被害者の気持ちになりなさい」という「良識派」の人たちの声や「外国の真似なんかするんじゃない」という偏狭なナショナリストたちの声にかき消されてしまうだけなので、大声では言わない :-)

今日のニュースでは、沖縄に「台風8号」が上陸したそうだ。
ぼくはこれを「台風ハチ公」と名づけた。
渋谷周辺にお住まいの人たちは、この台風の進路にご注意ください。


原爆を生き延びた男

2009.08.06 Thursday

今日は広島に原爆が投下された日。

尾崎さんという人に紹介されたのは、1年半ほど前だった。
彼は、人類史上でもきわめて稀な体験をした人だった。
広島に原爆が投下されたとき爆心地からわずか800mの地点にいたのに、命が助かって80才を過ぎた現在もピンピンしているという人だった。

当時19才の兵隊だった尾崎さんは広島にいた。
敵軍の戦車が上陸してきたときのために、爆弾を抱えてキャタピラの下にもぐりこむ訓練を、毎日やっていたそうだ。
「爆心地との間に広島城があったから助かったのかも知れない」と言う。
でも、一緒にいた250人の部隊の9割は死んでしまったそうだ。
「前の夜に配給の飯を食べる気がしなくて、周りの連中の酒と交換してもらったんですよ。6合も酒を飲んで寝ました。それがよかったのでしょうか」
と、彼は笑っていた。からだから顔まで無数のガラス片が刺さったものの、幸いなことに原爆症がでることはなかったとか。

しかし、まっ黒焦げの累々たる死体の山を見たことで、尾崎さんの人生は変わる。
終戦後は共産党に入り原水協の活動を続けてきたが、共産党が大衆運動をやめたことが気に入らず、離党。現在は個人的に反原発の活動をしているそうだ。

尾崎さんが持っていた皮カバンに目を奪われた。
使い古されたカバンで、表に原爆ドームが彫られ、裏面には原爆投下前のドームが彫られていた。全部自分の手作りだという。
「素晴しいカバンですね」と言うと、
「これでよければ、あげますよ」と、尾崎さん。
と、とんでもありません、と答えたのだけど彼は真顔だったのでありがたくいただいた。

たくさんの貴重な話を聞いて別れ際に握手を求めたら、
「平和のために!」と言って、強く握り返してくれた。

そのアトミック・バッグは今ぼくの手許にあり、
ちょうどラップトップが入るサイズなので、大切に使わせてもらっている。
なんだか、駅伝のタスキを手渡されたような気がする。
いつかは誰かにこれを手渡したい。
平和のために。

 

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プロフィール
本名・長野眞
フライ・コミュニケーションズ代表

1948年生まれ。1971年上智大学を卒業後、新聞記者、コピーライターの仕事を経験し、シカゴに留学。帰国後「日本国憲法」(小学館)を共同編集したことで本を作る楽しさを知り、北山耕平とともにフライ・コミュニケーションズを設立。斬新でユニークなアイデアと感性で、数多くの作品を企画、編集、執筆する。2009年世界にたった一冊の本をつくる「ニュー・グリーティングブックス」のHPを開設。10年間横浜の小さな森の中で自然とともに暮らし、現在は鎌倉の海辺で閑かな日々を過ごしている。
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