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2009.11.30 Monday
そこで何かが起きていて、それが何なのか知りたかったら、その一部になってしまうこと。そう思って誘われるままTwitter を始めたのだけど、まだ仕組みも何もよくわからず、きわめて無口な「さえずり機械」と化している。
"Twittering Machine" Paul Klee(1922)
"Twittering Machine" Paul Klee(1922)
2人の美しい人妻がやってきた
2009.11.27 Friday
人妻なので、ここでは名前は明かせない。
どうやらぼくの「独り鍋」の日記を読んでとても哀れに思い、鍋料理を作りにきてくれたようだった。多くの材料をかかえてキッチンに入り料理を始めた2人の後ろ姿を見ていると、突然2人の奥さんができたような気分になった。
海老、ハマグリ、牡蠣などがふんだんに入った豪勢な鍋が次々と出てきた。(実はぼくは牡蠣が食べられない)ワインやビールを飲んで、陶芸の先生小沢俊風さんも加わった。
人妻たちとは酒池肉林の世界に足を踏み入れることもなく、おもに美術の話に花が咲いた。彼女たちは2人とも独身時代、倉敷の大原美術館で仕事をしていた人たちだった。
食事を終えて、お礼がわりにグレイトフル・デッドのヴィデオを観てもらった :-)
世紀の名作 "So Far" だ。
「最初の10分だけでいいから我慢して観て」と頼んで、結局60分全部観せてしまった。
いい迷惑だっただろうな。
写真は、イメージです :-)
南風椎茸
2009.11.26 Thursday
椎茸が顔を出しはじめた。今年は時期が少し遅いね。
長老から教わった椎茸の作りかた。
毎年冬、コナラが落葉しきった頃に、太い枝を切る。
切った枝はひと月ほど寝かせておく。
春先に枝を適度の長さに切り分けてから植菌をする。
ドリルで枝にたくさんの穴を開ける。
その穴に椎茸菌をからめた小さな杭(種駒)を木槌で打ち込んでいく。
打ち込んだ枝(ホタ木)を積み上げる。
それでおしまい。
あとは風や雨や太陽が椎茸菌を育ててくれるのを待つだけ。
一年半もたつと、椎茸が顔を出しはじめる。太い枝で作ったホタ木なら、2,3年は続けて生えてくる。
ぼくが中心になって作ったホタ木から出てくる連中は「南風椎茸」と呼んでいる。
長老から教わった椎茸の作りかた。
毎年冬、コナラが落葉しきった頃に、太い枝を切る。
切った枝はひと月ほど寝かせておく。
春先に枝を適度の長さに切り分けてから植菌をする。
ドリルで枝にたくさんの穴を開ける。
その穴に椎茸菌をからめた小さな杭(種駒)を木槌で打ち込んでいく。
打ち込んだ枝(ホタ木)を積み上げる。
それでおしまい。
あとは風や雨や太陽が椎茸菌を育ててくれるのを待つだけ。
一年半もたつと、椎茸が顔を出しはじめる。太い枝で作ったホタ木なら、2,3年は続けて生えてくる。
ぼくが中心になって作ったホタ木から出てくる連中は「南風椎茸」と呼んでいる。
OK OKINAWA
2009.11.24 Tuesday
80年代にある航空会社から沖縄旅行のキャンペーン・テーマを頼まれた。
ぼくは「OK OKINAWA」というコピーを考えて提案したのだけど「よくわからない」とかで、ボツにされてしまった :-)
アメリカの車のライセンス(ナンバー)プレートには、州毎にそれぞれ違うメッセージが書かれている。ぼくがいたイリノイ州は「Land of Lincoln」だった。
オクラホマ州を旅したとき、あそこは「OKLAHOMA IS OK」だったことを思い出し、作ったコピーが「OK OKINAWA」だった。
いいと思ったんだけどね。
沖縄の米軍基地問題が揺れている。
戦中戦後と沖縄の人たちには大変な迷惑をかけっぱなしだ。
日本「本土」にはろくに使われてない空港がごちゃまんとあるのだから、あれを米軍に自由に使ってもらうことで解決できないものだろうか。(離着陸料金はいただく、とかで)
とにかく沖縄の人たちが米軍から解放される方向に、一歩でも踏み出してくれるような政治を期待している。元の平和な美しい島々に戻って、心から「OK OKINAWA」と言ってあげられるようになるといい。
Photo by Yoko Miyake
ぼくは「OK OKINAWA」というコピーを考えて提案したのだけど「よくわからない」とかで、ボツにされてしまった :-)
アメリカの車のライセンス(ナンバー)プレートには、州毎にそれぞれ違うメッセージが書かれている。ぼくがいたイリノイ州は「Land of Lincoln」だった。
オクラホマ州を旅したとき、あそこは「OKLAHOMA IS OK」だったことを思い出し、作ったコピーが「OK OKINAWA」だった。
いいと思ったんだけどね。
沖縄の米軍基地問題が揺れている。
戦中戦後と沖縄の人たちには大変な迷惑をかけっぱなしだ。
日本「本土」にはろくに使われてない空港がごちゃまんとあるのだから、あれを米軍に自由に使ってもらうことで解決できないものだろうか。(離着陸料金はいただく、とかで)
とにかく沖縄の人たちが米軍から解放される方向に、一歩でも踏み出してくれるような政治を期待している。元の平和な美しい島々に戻って、心から「OK OKINAWA」と言ってあげられるようになるといい。
Photo by Yoko Miyake
錦木(にしきぎ)
2009.11.23 Monday
錦木の葉っぱが赤くなり、赤い実をつけた。背の低い可愛い木だ。
昔、奥州では好きな女に会いたいとき男は錦木の枝を彼女の家の戸の前に立てたのだそうだ。枝が家の中に取り込まれたら「OKよ」という合図だったらしい。
いい時代のいい話だ。
夜寝るときに戸にカギをかけたりしなかった時代。各地に夜這いの風習があった時代。信じられないかも知れないけど、そんなおおらかな時代が日本にもあったのだ。それほど遠い昔のことじゃない。
ぼくも錦木の枝を、気になる女性の住むドアの前に置きにいきたくなることがある。
寒い冬の夜、さみしい独り寝で温もりがほしいときは特にね :-)
でももちろん実行はしない。木の枝を手に持った怪しいおじさんが夜道をトコトコ歩く姿が、あちこちの防犯カメラに録画されるだけだからだ。
ぼくたちが生きている時代は、そういう時代だ。
昔、奥州では好きな女に会いたいとき男は錦木の枝を彼女の家の戸の前に立てたのだそうだ。枝が家の中に取り込まれたら「OKよ」という合図だったらしい。
いい時代のいい話だ。
夜寝るときに戸にカギをかけたりしなかった時代。各地に夜這いの風習があった時代。信じられないかも知れないけど、そんなおおらかな時代が日本にもあったのだ。それほど遠い昔のことじゃない。
ぼくも錦木の枝を、気になる女性の住むドアの前に置きにいきたくなることがある。
寒い冬の夜、さみしい独り寝で温もりがほしいときは特にね :-)
でももちろん実行はしない。木の枝を手に持った怪しいおじさんが夜道をトコトコ歩く姿が、あちこちの防犯カメラに録画されるだけだからだ。
ぼくたちが生きている時代は、そういう時代だ。
『1000の風』と『感謝する死者』
2009.11.20 Friday
ぼくはグレイトフル・デッドというロックバンドが好きだ。
Grateful Dead とは「感謝する死者」という意味。古代から伝承された民話に由来している。こんなふうな物語だ。
『感謝する死者』
旅人がある村にさしかかると
村人たちが道に倒れて死んでいる男を
棒でなぐったり、石をぶつけたりしていた。
旅人が驚いて尋ねると、
「この男は葬儀代を残さずに死んだんです。
こうしてやるのが村のしきたりなんです」と言う。
旅人は持っていた最後のコインを村人たちに渡し
ていねいに埋葬してくれるよう頼んだ。
村を出て旅を続けていたある日
ひとりの若者と出会い、旅人に同行するようになる。
旅人が川に落ち急流に流されたときは
この若者が飛び込んで助けてくれた。
大怪我をした足は薬草を探してきて治してくれた。
食べ物がなくなったときは果実をもってきてくれた。
旅人をたくさん助けてくれた若者は
ある日別れを告げて別の道を歩いていった。
若者が風のように去ったあと
旅人ははじめて気がつく。
若者はあの日あの村で死んで倒れていた若者だった。
(翻案/南風椎)
ぼくが『1000の風』を出版したのは、95年の6月だった。
8月にグレイトフル・デッドのギタリスト、ジェリー・ガルシアが亡くなった。
そしてその年の暮れにはグレイトフル・デッドが正式に解散し、30年にもわたった不思議な旅を終えた。
そんなこともあってぼくの中では『1000の風』の詩と『感謝する死者』の物語は、完全に重なっている。
ぼくの父も母もジェリー・ガルシアも藤原伊織さんも、感謝の風、感謝の雨、感謝の星の光となって、人生を分け合ったぼくたちを訪ねてくれている。
ぼくもいつか「感謝する死者」のひとりになるまでは、いい風に吹かれ、いい雨に濡れ、いい星の光を浴びて、今の肉体で生きていることを存分に楽しみたい。
(連載終わり)
画像はデッドのアイコンをアレンジしたワッペン(ネパール製)
『1000の風』についてはまだまだ書き足りないのですが、今回はこれで終わります。
とても多くの人たちが連載を読みにきてくださったようです。
感謝します。
『1000の風』と『千の風になって』 7
2009.11.19 Thursday
その後もなぜか新井満さんから「千の風」の酒やお香がいっぱい届いた。
隣りの縄文庵に集う年長の先輩たちにあげることにした。囲炉裏端で長老が、
「そのアライ・マンって男は『マンの風になって』という本を書けばよかったのにな」
と冗談を言った。別の誰かが、
「しかし本も歌も売れてるらしいし、彼は何億も稼いでますよ」と言うと、
「じゃあ彼の次の本は『億の風になって』だな」とまた長老が答えた。
ぼくは苦笑して話を聞いていた。
同じころ朝日ニュースターの『痛快!おんな組』という番組で、永六輔さんが「千の風にならない」と書いた紙を見せて語っていた。なんでも以前デーブからぼ くの『1000の風』をもらって、気に入ってくれていたらしい。あれは読む詩であって、曲をつけてみんなで歌うなんて気持ち悪いと言っていた。
痛快だったので番組の司会の辛淑玉さんにメールをして、新井さんがきて謝って帰ったことを教えた。すぐに返事がきた。
「あなたのことだから、謝ったら許しちゃったんでしょう? 次に彼から何か連絡があったら、マネージャーの辛淑玉を通すように言ってやって」
数日後新井さんから電話があった。再び例の雑誌で対談したいという申し出だった。
辛さんから言われた通りのことを伝えると、彼は絶句し、それっきりぴったりと連絡がこなくなった。
辛淑玉さんの名前の威力、恐るべし :-) 辛さん、ごめんね。
新井満さんの講演を聞いたという人からもメールをもらった。
「自分は『千の風になって』を出したことで、いい人になった」と彼は語っていたそうだ。
それまでは悪い人だったんだね :-)
もしほんとうにひとりの悪い人をいい人に変えられたのなら、ぼくは『1000の風』を出してよかったと思う。
世界を前よりほんの少しだけ、ましな世界に変えたということだから。
(続く)
隣りの縄文庵に集う年長の先輩たちにあげることにした。囲炉裏端で長老が、
「そのアライ・マンって男は『マンの風になって』という本を書けばよかったのにな」
と冗談を言った。別の誰かが、
「しかし本も歌も売れてるらしいし、彼は何億も稼いでますよ」と言うと、
「じゃあ彼の次の本は『億の風になって』だな」とまた長老が答えた。
ぼくは苦笑して話を聞いていた。
同じころ朝日ニュースターの『痛快!おんな組』という番組で、永六輔さんが「千の風にならない」と書いた紙を見せて語っていた。なんでも以前デーブからぼ くの『1000の風』をもらって、気に入ってくれていたらしい。あれは読む詩であって、曲をつけてみんなで歌うなんて気持ち悪いと言っていた。
痛快だったので番組の司会の辛淑玉さんにメールをして、新井さんがきて謝って帰ったことを教えた。すぐに返事がきた。
「あなたのことだから、謝ったら許しちゃったんでしょう? 次に彼から何か連絡があったら、マネージャーの辛淑玉を通すように言ってやって」
数日後新井さんから電話があった。再び例の雑誌で対談したいという申し出だった。
辛さんから言われた通りのことを伝えると、彼は絶句し、それっきりぴったりと連絡がこなくなった。
辛淑玉さんの名前の威力、恐るべし :-) 辛さん、ごめんね。
新井満さんの講演を聞いたという人からもメールをもらった。
「自分は『千の風になって』を出したことで、いい人になった」と彼は語っていたそうだ。
それまでは悪い人だったんだね :-)
もしほんとうにひとりの悪い人をいい人に変えられたのなら、ぼくは『1000の風』を出してよかったと思う。
世界を前よりほんの少しだけ、ましな世界に変えたということだから。
(続く)
『1000の風』と『千の風になって』 6
2009.11.18 Wednesday
『1000の風』の詩がさざ波のように広がっていたことを書いたが、本が出て7,8年後、そのさざ波のひとつが新井満さんのところに届いた途端、彼はさざ波を津波に変えた。
まるで魔術師のように彼がさまざまな手法を駆使している報道を、ぼくはこの森の中から口をあんぐり開けて見ていた。彼からは相変わらず何の連絡もなかった。
06年の暮れの歌合戦で『千の風になって』が歌われたらしく、津波は大津波と化したようだった。友人たちからも「新井さんにあんな非常識なことをやらせてていいの?」という電話やメールがくるようになった。
2月の終わりにぼくはmixiの中で、限られた友人たちに「思っていること」を書いた。
「子どもがいないぼくにとっては、これまでに作ってきたたくさんの本が自分の子どものようなものだ。『1000の風』という本が孫やひ孫を作って、その連中が賑やかにやっているなあ、というような気持ちで騒ぎを眺めている」
友人たちからは新井さんへの怒りのコメントが相次いだ。
mixiにはその後もたびたび「思い」を書いた。
5月の終わりに突然新井さんから電話が入った。残間里江子さんに何か言われたらしかった。
彼はキリスト教系の雑誌でぼくと対談したいと申し込んできた。
「対談を申し込むより、物書きとして物づくりをする人間として、先にやることがあると思う」と返答した。
6月の激しい雷雨の日、新井満さんが大きな荷物を持ってわが家を訪ねてきた。
彼が来ると知って土光洋子さんも東京から駆けつけ、話し合いに同席してくれた。
「ぼくの本『千の風になって』はどう思いましたか?」と聞いてきたので、
「稚拙な本でした」と正直に答えた。本の著者を目の前にしてそんなひどいことを言うなんて過去になかったし、これからもないと思う。
隣りに座っていた土光さんがさぞ驚いただろうと、あとで聞いてみたら、
「あのときはほんとに胸がスカッとしたわ」と言っていた :-)
mixiに書いていた「思い」を(友人たちのコメントも)プリントアウトしておいたので読んでもらうことにした。A4で20枚以上を彼は時間をかけて読んだ。
読み終えた彼は、南風椎にまったく連絡もせずに似たような本を作ったことを詫び、これまでの自分の言動が元祖本である『1000の風』への敬意に欠けていたことを詫び、テーブルに両手を置いて、何度も何度も頭を深々と下げた。
その後彼は持ってきた荷物からおみやげのようにたくさんの本やCDを取り出した。
こんなにいっぱい作ってたんだ!
左端の本の表紙に驚いた。ぼくが『1000の風』で使ったのとそっくりの写真を平気で使い、しかもその本を平然とぼくに見せる人の神経が理解できなかった。
彼は荷物から『千の風』という名の日本酒やお香も取り出した。
「まさかこの言葉を商標登録したの?」と聞くと、否定も肯定もせずうつむいた。
"A THOUSAND WINDS" は作者不明でパブリック・ドメイン、人類の共有財産だと考えていたからこそ新井さんがやっていることに何も言わずにきたのに、商標登録!?
「南風椎の本がなかったら自分があの詩に出会うことはなかったし、本も歌も作れなかった。これからは取材のときも講演でもそのことをかならず最初に言います」
と何度も約束をして新井満さんは帰っていった。
約束が守られているのかどうかは、知らない。
(続く)
まるで魔術師のように彼がさまざまな手法を駆使している報道を、ぼくはこの森の中から口をあんぐり開けて見ていた。彼からは相変わらず何の連絡もなかった。
06年の暮れの歌合戦で『千の風になって』が歌われたらしく、津波は大津波と化したようだった。友人たちからも「新井さんにあんな非常識なことをやらせてていいの?」という電話やメールがくるようになった。
2月の終わりにぼくはmixiの中で、限られた友人たちに「思っていること」を書いた。
「子どもがいないぼくにとっては、これまでに作ってきたたくさんの本が自分の子どものようなものだ。『1000の風』という本が孫やひ孫を作って、その連中が賑やかにやっているなあ、というような気持ちで騒ぎを眺めている」
友人たちからは新井さんへの怒りのコメントが相次いだ。
mixiにはその後もたびたび「思い」を書いた。
5月の終わりに突然新井さんから電話が入った。残間里江子さんに何か言われたらしかった。
彼はキリスト教系の雑誌でぼくと対談したいと申し込んできた。
「対談を申し込むより、物書きとして物づくりをする人間として、先にやることがあると思う」と返答した。
6月の激しい雷雨の日、新井満さんが大きな荷物を持ってわが家を訪ねてきた。
彼が来ると知って土光洋子さんも東京から駆けつけ、話し合いに同席してくれた。
「ぼくの本『千の風になって』はどう思いましたか?」と聞いてきたので、
「稚拙な本でした」と正直に答えた。本の著者を目の前にしてそんなひどいことを言うなんて過去になかったし、これからもないと思う。
隣りに座っていた土光さんがさぞ驚いただろうと、あとで聞いてみたら、
「あのときはほんとに胸がスカッとしたわ」と言っていた :-)
mixiに書いていた「思い」を(友人たちのコメントも)プリントアウトしておいたので読んでもらうことにした。A4で20枚以上を彼は時間をかけて読んだ。
読み終えた彼は、南風椎にまったく連絡もせずに似たような本を作ったことを詫び、これまでの自分の言動が元祖本である『1000の風』への敬意に欠けていたことを詫び、テーブルに両手を置いて、何度も何度も頭を深々と下げた。
その後彼は持ってきた荷物からおみやげのようにたくさんの本やCDを取り出した。
こんなにいっぱい作ってたんだ!
左端の本の表紙に驚いた。ぼくが『1000の風』で使ったのとそっくりの写真を平気で使い、しかもその本を平然とぼくに見せる人の神経が理解できなかった。
彼は荷物から『千の風』という名の日本酒やお香も取り出した。
「まさかこの言葉を商標登録したの?」と聞くと、否定も肯定もせずうつむいた。
"A THOUSAND WINDS" は作者不明でパブリック・ドメイン、人類の共有財産だと考えていたからこそ新井さんがやっていることに何も言わずにきたのに、商標登録!?
「南風椎の本がなかったら自分があの詩に出会うことはなかったし、本も歌も作れなかった。これからは取材のときも講演でもそのことをかならず最初に言います」
と何度も約束をして新井満さんは帰っていった。
約束が守られているのかどうかは、知らない。
(続く)
『1000の風』と『千の風になって』 5
2009.11.15 Sunday
2001年の秋、ぼくは東京の事務所を引き払って横浜のこの小さな森に入り、里山仕事や畑仕事の日々を始めた。どうしてそんなことになったのかという話は、また別の話になるので別の機会に書きたい。
2003年の8月23日、朝日新聞の「天声人語」に驚くようなことが書いてあった。
「1000の風」についての記事だった。IRAのテロで死んだ青年の話、ジョン・ウェインが朗読したという話、マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたという話。
10年以上「1000の風」のことを調べてきたぼくが知らないことばかりが書かれていた。あたかも日本以外の国々では「1000の風」は誰でも知っている詩であるかのような記事だった。そんなはずはないのに。ぼくが森に引きこもってる間にそんなことに?????
ぼくが出した『1000の風』の本にも記事は触れていたが、メインはそうじゃなかった。
作家で作詞・作曲家の新井満さんが自分で作った私家盤のCD『千の風になって』を友人らに配っているというのがメインの記事だった。
そして新井さんが訳したという詩も書かれていた。「1000の風」が「千の風」になっているだけ。あとは、ぼくの訳詩の言葉の順番を変えたり、省略したりしているだけの詩に思えた。
すごくいやな予感がした。藤原伊織さんの話を思い出したからだ。
この「天声人語」をきっかけに新井さんの活動が活発になったようで、ぼくのところにも新聞やTVの取材がくるようになった。記者の人たちに「新井さんにぼくに連絡をくれるよう」頼んだけど新井さんからはまったく連絡がなかった。
これは1985年頃、ぼくの事務所で。
左からぼく、蛭子能収さん、新井満さん。この頃の新井さんはいつもカメラを持っていて、事務所に遊びにくるたびにこういうスナップを撮っていた。「小説家になりたい」と言っていた電通マンだった。
『1000の風』と『千の風になって』 4
2009.11.14 Saturday
"A THOUSAND WINDS" についての調査は困難をきわめた。
まだ日本にはプロバイダーがなかった時代に、2400bpsのモデムでインターネットに接続し、国際電話料金を気にしながら情報を探し回ったりしたが、収穫は少なかった。
"A THOUSAND WINDS" の詩をのせているサイトはふたつ見つかった。そのうちのひとつはペット・セメタリー(墓地)の広告だった。キリスト教圏ではやっぱり人の死を扱った詩としては受け入れにくいのかも知れない、と思った。
自然の詩を集めた英語のアンソロジー本の中に収録されているのがわかったし、小説にも引用されていたが、いずれも作者は Unknown(不明)とされていた。
"A THOUSAND WINDS" をタイトルにした本は見つからなかった。
94年に三五館から『ポケットオラクル』を出すことが決まった。20世紀も終わりに近づいていて「次の世紀まで残したい言葉」で小さな本のシリーズを作りたかったのだ。
第1巻は日本国憲法の「前文」を英語原文からわかりやすい現代語で翻訳し直した。
シリーズは『シャイアンインディアン 祈り』『マイケル・ジョーダン 飛言』『ピースメイカーズ 平和』『般若心経』と続き、95年6月に6巻めとして『1000の風 あとに残された人へ』を世に出した。(オラクル・シリーズは98年の『アップル宣言』で終了した)
『1000の風』の翻訳は「神の展覧会」で終えていたので大きな変更は必要なかった。
これだけ美しい詩なのだから、そばに置く写真は負けないものにしたかった。おびただしい数の写真を見た。「私は1000の風になって 吹きぬけています」のページの写真を探していて、この写真と出会えたときの喜びったらなかった。
本が出てもマスコミに騒がれるようなことはなかった :-)
河合隼雄さんがこの本について『文芸春秋』にとても素敵なエッセイを書いてくれたくらいだ。でも書店の店頭で『1000の風』を見つけて読んで感動した、というような話はぼくの耳にも届くようになった。
少部数だけど毎年増刷も重ねていた。ほんとうに静かなさざ波のように「1000の風」の詩が広まっているのは実感できたし、うれしかった。
まだ日本にはプロバイダーがなかった時代に、2400bpsのモデムでインターネットに接続し、国際電話料金を気にしながら情報を探し回ったりしたが、収穫は少なかった。
"A THOUSAND WINDS" の詩をのせているサイトはふたつ見つかった。そのうちのひとつはペット・セメタリー(墓地)の広告だった。キリスト教圏ではやっぱり人の死を扱った詩としては受け入れにくいのかも知れない、と思った。
自然の詩を集めた英語のアンソロジー本の中に収録されているのがわかったし、小説にも引用されていたが、いずれも作者は Unknown(不明)とされていた。
"A THOUSAND WINDS" をタイトルにした本は見つからなかった。
94年に三五館から『ポケットオラクル』を出すことが決まった。20世紀も終わりに近づいていて「次の世紀まで残したい言葉」で小さな本のシリーズを作りたかったのだ。
第1巻は日本国憲法の「前文」を英語原文からわかりやすい現代語で翻訳し直した。
シリーズは『シャイアンインディアン 祈り』『マイケル・ジョーダン 飛言』『ピースメイカーズ 平和』『般若心経』と続き、95年6月に6巻めとして『1000の風 あとに残された人へ』を世に出した。(オラクル・シリーズは98年の『アップル宣言』で終了した)
『1000の風』の翻訳は「神の展覧会」で終えていたので大きな変更は必要なかった。
これだけ美しい詩なのだから、そばに置く写真は負けないものにしたかった。おびただしい数の写真を見た。「私は1000の風になって 吹きぬけています」のページの写真を探していて、この写真と出会えたときの喜びったらなかった。
本が出てもマスコミに騒がれるようなことはなかった :-)
河合隼雄さんがこの本について『文芸春秋』にとても素敵なエッセイを書いてくれたくらいだ。でも書店の店頭で『1000の風』を見つけて読んで感動した、というような話はぼくの耳にも届くようになった。
少部数だけど毎年増刷も重ねていた。ほんとうに静かなさざ波のように「1000の風」の詩が広まっているのは実感できたし、うれしかった。
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本名・長野眞
フライ・コミュニケーションズ代表
1948年生まれ。1971年上智大学を卒業後、新聞記者、コピーライターの仕事を経験し、シカゴに留学。帰国後「日本国憲法」(小学館)を共同編集したことで本を作る楽しさを知り、北山耕平とともにフライ・コミュニケーションズを設立。斬新でユニークなアイデアと感性で、数多くの作品を企画、編集、執筆する。2009年世界にたった一冊の本をつくる「ニュー・グリーティングブックス」のHPを開設。10年間横浜の小さな森の中で自然とともに暮らし、現在は鎌倉の海辺で閑かな日々を過ごしている。
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