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2016.01.17 Sunday

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第一回アートワークス展

2010.04.28 Wednesday

     


第一回アートワークス展(86年)のポスター。
<A>の文字を描いてくれた沢田としきさんが、昨夜亡くなったそうだ。
詳細はまだ何もわからない。
音楽が大好きな画家だった。

ご冥福を心からお祈りします。

<A>沢田としき <R>井出貴久 <T>真鍋太郎 <W>板谷充祐 <O>加藤節子 <R>松本小雪 <K>太田螢一 <S>伊藤桂司







タンゴはひとりじゃ踊れない

2010.04.24 Saturday

新井満さん、お元気ですか?
まだこのブログを読んでくれていますか?

3月中旬の大騒ぎのころ、あなたと当時仕事をしていた朝日新聞の知人が「新井さんも南風椎のブログを読んでいる」と教えてくれました。そして「自分のホームページで反論する」とあなたが語っていたことも聞きました。
あれ以来あなたのホームページ周辺に注意をはらってきたのですが、一か月半たってもいまだに「反論」に出会えずにいます。
新聞、雑誌、テレビなど旧来のメディアから出てきて、インターネットという広大な地平であなたが何を語ってくれるのか、楽しみにしています。

もし適当な場をお探し中でしたら、twitter上ででも対談しませんか?
ご返事ください。



It Takes Two To Tango.

タンゴはひとりじゃ踊れない。



                    (続く)





筍会 幻の村

2010.04.23 Friday

  

この森の一角は竹林になっている。
引っ越してきてすぐのころ、何人かの友だちと「タケノコを掘ってタケノコを食べる会」をやろうということになった。「筍会」のはじまりだった。
数年後には50人、60人もの来客のある会になっていた。人数的にホームパーティの域はとっくに越えていたし、大変だったけど、毎年春には続けてきた。
子供たちがたくさんきて、森の中を走り回っているのを見るのは楽しかった。
夏みかんをとりに木に登り、おりられなくなった子におりかたを教えたりした。焚き火で火のおこしかたを教わってる子もいた。野の花を摘んで、ぼくにプレゼントしてくれた子もいた。筍会でわけありの男女が偶然再会し、竹林で話しているそばにいたため追い返され、泣きついてきた子もいた :-)
「子供をひとり育てるのには、村がひとつ必要だ」という言い伝えのままだ。

筍会は7年続いたのだろうか。さまざまな事情から昨年中断し、今年も開けなかった。
横浜という都会の真ん中に一年に一日だけ小さな村ができて、一日だけで幻のように消えていた。筍会。工夫してまた復活させたいね。

    

まだ小人数だったころの筍会の記念写真。






タラの木

2010.04.21 Wednesday

枝の先のタラの芽はその春のふたつめまでは摘んでいい、と長老に教わった。みっつめはそのままにしてあげないと木が大きくならないから、と。
だからこの森には成長して信じられないほど大きくなったタラの木がいっぱいある。
写真のタラの木も縄文庵の二階の屋根を越えそうなほど高くなった。高枝バサミも届かないので、タラの芽がとれない。



「タラの芽の初物を食べると寿命が3年のびる」と聞いて毎年てんぷらを食べてきた。もう寿命が30年はのびただろうね :-)
しかしタラの木自身の寿命は植物にしては短い。ぼくがこの森にきてからだけでもいくつもの大きなタラの木が死んでいくのを見てきた。
この木もあとは伸びるだけ伸ばしてやって、長寿をまっとうさせてあげたい。







ジャガイモの発芽

2010.04.20 Tuesday

畑のジャガイモが芽を出しはじめている。
ひそかにつけている農民日誌(?)によると、3月8日に植え付けたものだ。
20,30個のタネイモを半分に切って切断面に囲炉裏の灰をまぶし、畑に穴を掘り少量の肥料を入れ、タネイモをひとつずつ放りこんで土をかけていく、という作業を長老と一緒にやった日だった。
その後寒い日が続いたからか発芽が遅れていて心配していたのだけど、順調に育っていたようでよかった。うまいジャガイモができるはずなので、収穫が楽しみだ。



このブログで確認したら、3月8日の日記は清水伸充さんの写真「ヨーダと『1000の風』」を紹介している。そして同じ日の午後にはumedamikaさんがtwitterではじめて「新井満さん問題」をつぶやいている。あの空前の大騒ぎが始まった日でもあったんだ。
ついこの間の「事件」のようだけど、地中のタネイモの芽が地上に顔を出すまでの時間があれからたったんだね。







母と子の絆

2010.04.19 Monday

去年の暮れ、5羽のチャボが縄文庵にやってきたことは日記にも書いた。その後チャボ一族は温室で暮らしていたのだが、このたび一羽のヒナが孵った。
警戒心の強い母鳥がかたときもヒナを離れない。カメラを向けたりすると、羽の下に隠してしまう。ストレスを与えそうなので、カメラを向けるのはやめにした。

方針を変えて一日に何度か温室に通い、母と子のそばで気にもかけてない素振りでほかの作業をして帰ってくる。そんなことを繰り返しているうちに、ぼくに慣れたのか「悪いおじさんではない」と気づいてくれたのか、ヒナは母鳥の羽の外に出て遊びはじめた。母親にぴったり寄り添ってはいるけど。

そうやってようやく撮れたのが、この写真。
チャンパ王国からきたチャボの、ヒヨコ。可愛いよね :-)

        









Earth Day

2010.04.18 Sunday



アースデイのイベントが各地で開かれているようだ。

1987年の今ごろの季節、わがアートワークス・コミッティは「Earth Works Party」なるものを開いた。
東京FMホールでの4日間のイベントだった。100人以上の若い芸術家たちに「地球上に永遠に残したいもの」を作品化してもらい、それらを直径3mの地球儀に貼り付けて会場に展示した。
<EARTH>には<ART>が隠れている、と言いたかったのだ。

巨大な地球儀がグルグルと回転する会場で、ミュージシャンや芸術家たちがパフォーマンスを繰り広げた。沼田元氣は偽一万円札をバラ撒き、全裸のストリップ嬢を紹介した。近藤等則はトランペットソロで高価なスーパーウーハーをぶっ壊し「なぜ科学技術は芸術活動についてこれないのか」と叫んだ。あがた森魚と鈴木慶一のライヴはステージも客席もみんな60年代のファッションだった。鈴木慶一は"I don't believe you"というディランの有名な台詞で歌いはじめた。

アースデイとは一体何なのか、という説明から始めるしかなかった23年前の日本で、そんなことをやっていた若い芸術家たちの集団がいたことを知っておいていただきたい。

    

製作中の地球儀の前で疲れ果てているぼく。












iPad

2010.04.16 Friday

iPad の日本発売が一か月延期になったとか。
まるで日本史の進化が一か月遅れてしまうかのような騒ぎだ。

ちょうど一週間前の4月8日、友人からこんな写真を添付したメールがきた。
その日一日メールのやりとりが続いた。

     

 「日本初上陸の一台が届きました」

 「心の底から、うらやましい!!! 使いごこちを詳しく教えて」

 「妊娠した iPhone と思えばわかります」

 「妊娠してようと体型が崩れてようと、さわってみたい!!!」

 「南風さんの Classic おぼえてます」

などなど。
古い友人がこんなにうらやんでるのだから、
 「わかりました。この iPad はボクじゃなく南風さんが持つべきです」
とでも言って宅急便で送ってくれるかと期待したんだけどね。
まだ届かないよ、デーブ :-)






池田香代子さん

2010.04.14 Wednesday

池田香代子さん、はじめまして。
この数日、池田さんのブログを経てぼくのブログを訪問してくれている人たちがとても多いのでご挨拶させてください。『1000の風』問題について「私は南風さんのきちんとした怒りに打たれました。ブログ全体のうつくしくて静謐なたたずまいからも、この方に肩入れしたくなりました」とおっしゃっていただいたことに感謝します。

池田さんのことは、もちろんよく存じ上げていました。
数か月前にぼくにしては珍しく講演/朗読会をやったとき、話の始まりに『ベルリン 天使の詩』のほんの一部を上映させてもらいました。ヴィム・ヴェンダースの素晴しい映画です。あの字幕を担当されていたのが池田さんでしたね。全編が一編の詩のように美しい翻訳でした。
    

『世界が100人の村だったら』の本の記憶も鮮明です。
ぼくも実は92年に出した150部限定の『アートワークス』に、
   もしこの世界が人口1000人の村だったら
   60人が全収入の半分を持っていき
   500人は飢えていて
   600人はほったて小屋に暮らしていて
   700人は文字を読めない
と書いたTシャツを作って入れました。勝新太郎さんの作品を紹介したブログで、彼の絵の横に写っている黒いシャツがそれです。
95年にこの全文を読み、作ったダネラ・H・メドウズさんとも連絡がとれ「たくさんの人たちに知ってもらうのが目的です。自由に翻訳出版してください」という返事をもらい、涙ぐむほど感激したものです。
残念ながらぼくはいろいろあって出版にこぎつけられませんでしたが、のちに池田さんが素敵な本にして広めてくださったのを知りました。印税のすべてを難民救済事業に寄付されたことにも非常に感銘を受けました。

    

15年ほど前の、東京にいたころのぼくの仕事部屋です。
壁の地球のポスター(Value Earth)の裏面に『もし世界が1000人の村だったら』の全文が書かれていました。
長くなりそうなので、お礼とともに今日はこのあたりで。ありがとうございます。
ネット上とは言え、お知り合いになれてうれしいです。


                    (続く)





1967年の日記

2010.04.11 Sunday

1967年。ぼくが高校三年から大学一年になる年に日記を書いていたことは知っていたし、今も捨てずにあることも知っていた。ときどき本棚の整理をしていて紺色の布ばりの表紙に「'67」と印刷された日記が出てくると、あわてて本棚の奥にしまいこんできた。
18,19歳のころの日記なんて、恥ずかしくて読めるわけがない。
うすばかで甘ったれで、学のあるふりをしたがる、意気地なしの子供が書いたいらいらするだけの日記に違いないのだ。

最近またその日記が出てきた。今回はなぜかじっくり読んでみた。
すごく面白かった。うすばかで甘ったれの子供のちんけな日記であることは変わりはないのだけど、今のぼくが逆立ちしても書けない日記だった。
人生を始めてまだ間もない、初々しさにあふれていた。

1月5日(水)には、雑誌から切り抜いたらしいジョーン・バエズ(当時27歳)の写真を貼って、軍費として使われる税金の4割をさっぴいて納めているという彼女の行動を讃えている。
2月1日(水)には、通学バスで目が合うと微笑んでくれる下級生の女の子の似顔絵を描いて、詩を捧げている。名前も知らない子なので「モナリザ」と呼んでいた。

しかし受験勉強は呆れるほどまったくやってない。ベビーブーマー世代なので75万人の受験生で30万人の浪人が出る、という報道に怯えて「現役で入れてください」と神さまにお願いしたりしている。映画や音楽や小説やパチンコに逃避してるだけの日々だ。

3月1日(水)試験がすべて終わった日はモンキーズの切り抜き写真を貼って喜んでいる。好きだったんだよなあ、モンキーズ :-)

神さまへの祈りが通じたらしくて大学に入り、すぐ上の兄と横浜のアパートで暮らし始め、日記はベッドの下に隠して大学生活を書き続けている。

11月にその兄と両親とで食事をした。酒に酔った兄が「あのモナリザって子はどうしたんだ?」と聞いてきた。モナリザ?!日記にしか登場しない女の子のことだ。父と母は困った表情で黙って食事を続けていた。すぐに理解した。この兄がぼくの日記を盗み読んで、両親に内容を教えていたことは間違いなかった。
この日記を書くのは11月30日(木)でやめている :-)

大人になってからのぼくは写真や絵と文章の本を100冊以上も作るのだけど、高校時代から同じようなことをやっていたんだね。











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プロフィール
本名・長野眞
フライ・コミュニケーションズ代表

1948年生まれ。1971年上智大学を卒業後、新聞記者、コピーライターの仕事を経験し、シカゴに留学。帰国後「日本国憲法」(小学館)を共同編集したことで本を作る楽しさを知り、北山耕平とともにフライ・コミュニケーションズを設立。斬新でユニークなアイデアと感性で、数多くの作品を企画、編集、執筆する。2009年世界にたった一冊の本をつくる「ニュー・グリーティングブックス」のHPを開設。10年間横浜の小さな森の中で自然とともに暮らし、現在は鎌倉の海辺で閑かな日々を過ごしている。
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