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2016.01.17 Sunday

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センチメンタル・ジャーニー

2010.05.30 Sunday

半年ぶりに東京へ。
まったくひさしぶりに本を出すことになっていて、仕事で出版社に行ったのだ。出版社に色校正にでかけるなんて、十年ぶりのことだ。
待ち合わせの四谷駅に早めに着いたので、駅前の大学に寄ってみた。出身大学に寄るなんてもう何十年ぶりなのかも思い出せない。正門前の土手の上に座って、しばらく眺めた。
平和でのどかなキャンパス風景だった。

 2010sophia*.jpg

ぼくの学生時代は沖縄はまだ日本じゃなかった。
だからあの島々には行ったこともなかった。
沖縄は日本に返還されるべきなのか、日本からもアメリカからも解放されるべきなのかを、キャンパスで口角泡飛ばして議論していたことを思い出した。

当時の正門前はこんな風景だった :-)

 1970sophia*.jpg

どっちの時代がいいとか悪いとか、どっちの時代が楽しいのかの話は意味がない。
今目の前を歩いている学生たちはベトナム反戦デモの隊列には参加できないのだし、ぼくだって今のキャンパスでiPadを抱えた女子大生と恋ができるわけじゃない。
そんな比較は意味がない。
あれから40年もたってしまったんだという感傷にひたるしかなかった。

出版社での仕事を終えて、四谷しんみち通りに向かった。
思い出の多い、歩くだけで涙が出そうな道だ。今話題の居酒屋に案内してもらい、冷たいビールとシジミと南蛮揚げの魚と支那そばをご馳走になり、横浜の家に帰った。

半日だけのセンチメンタル・ジャーニー。
たまには森を出て、都会の風に吹かれなきゃいけないね。



















バリ・チャイム

2010.05.25 Tuesday

この森の蚊は数も多いし、強力で凶暴な連中だ。
真夏であっても半袖半ズボンなどという服装では外を歩けない。ひどい目に遭ってしまうから。

夏場は「塩」を手放せない。
知らない人が多いが、蚊に刺された個所にはかゆみどめの薬なんかより塩を塗りこむのが一番有効なのだ。かゆみも消えるし、跡も残らない。
ぼくはこの森の四季は「春蚊秋冬」だと思っている。

夏は網戸なしで窓を開けて過ごすことはとてもできない。
しかし蚊が発生する前のほんの短い時期、つまり今の時期は網戸なしで窓を開け、風を部屋にとりこむことができる。いい季節だ。

好きなバリ・チャイムを出してきて、この時期は窓辺に吊るす。
バリ島の風物詩。
風が奏でるメロディを楽しんでいる。


 風が見える
 木々が見える
 すべてがぼくの心の中で
 澄みわたっている

  John Lennon "Oh My Love"















『山古志村ふたたび』と千の風基金

2010.05.21 Friday

2001年にこの森に入って以来、理由があって出版の仕事はほとんどしていない。昨年New Greeting Books のサイトを開くまで8年間、本作りからは遠ざかっていた。
『山古志村ふたたび』は、そんな時期に関わった数少ない本のひとつだ。
新潟地震の直後に声がかかった。山古志を20年間撮り続けた写真家が復興支援のためなら無償で写真を提供するという話があり、立ち上がりには出版社も印刷所も無償で協力するという話だった。震災報道で山古志という不思議なコミュニティに興味をもっていたぼくは、即刻ボランティア参加を承諾した。

編集者やデザイナーとともにすぐに長岡市に向かった。
中篠均紀さんの写真は素晴しく美しかった。避難所の山古志村民の人たちとも会って話をした。何百年もかけて作った棚田が破壊されましたね、と聞くと、
「これから何百年もかけて作り直せばいいんですよ」
と笑って答えるような不思議な魅力をたたえた人たちだった。

この本にぼくは「祈りのことば」を書くことにした。

 雲の中の村に
 新しい光がさしますように。

 勝者も敗者もない。
 世界にもまれな「勝ち負けのない闘牛」を
 何百年も楽しんできた村に
 あの陽気な歓声が
 ふたたび帰ってきますように。

 肥沃な土地が生き延びていますように。

などなど。
本を黙読するだけで頭の中で祈りを唱えられるような本にしたかった。お金を集めるだけじゃなく、日本中から祈りも集めたかったのだ。美しい写真集ができた。

   

同じ新潟地震のために新井満さんが「千の風基金」というチャリティをやっていることは知っていた。わが家にきたとき熱心に説明してくれたからだ。
説明のあと、実はぼくも『山古志村ふたたび』という本を作ったということ、最初の一年で2000万円を村に寄付できたことを話した。
新井さんは千の風基金の話をやめて、なぜか彼が新潟での少年時代いかに貧しくて病弱だったかという話を始めてくれた。
新井さんが「千の風基金」に480万円寄付されたことは、あとで報道で知った。

誤解してほしくないのだけど、ぼくは寄付金額の多寡を言いたいわけじゃない。
自分がやったボランティアや寄付行為について声高に語るのは、あまりかっこいいことではないと思っている。千の風基金について話すと当然山古志村の話を書きたくなるだろうから、この連載を始めて半年間、千の風基金についてはふれないようにしてきた。
ところがネット上で「南風椎が新井さんの千の風基金について書いてないのはおかしい」という批判があることを知ったので、ここに書いておくことにした。
批判していた方にわかってもらえるといいけど。


                      (続く)








喧嘩両成敗

2010.05.18 Tuesday

『1000の風』についての日記を書きはじめてから、実に多くの助言が届いた。
「訴訟しなさい」「訴えるべきだ」「いい弁護士を紹介します」
そんなふうな助言がものすごく多かった。ぼくのことを心配してくれてのことだろうし、ありがたかったのだが、とても困惑もした。
知らないうちに日本社会ってこうなっちゃったんだという思い、少し昔のアメリカ社会のようになってきたんだ、という思いだった。
どんな社会かというと。
ひとりが牛の頭をひっぱり、ひとりが牛のしっぽをひっぱり、真ん中で弁護士が牛の乳をしぼっているという奇妙な光景が、そこら中で展開されている社会だ。

ぼくは「喧嘩両成敗」という考えを支持している。
世界に誇れる日本思想のひとつである、とまで考えている。
「喧嘩両成敗」とは何か、には諸説あるが、ぼくはこう解釈している。

「大の大人が小さなトラブルを抱えて、自分たちの話し合いでは解決できず、事情もよく知らない第三者のところにもちこんで裁定を頼むなんて、情けない。そんなふたりは成熟した大人とは言えない。そんなふたりは、どっちも悪い」

喧嘩両成敗を信じるぼくは『1000の風』問題でも一貫して話し合いによる解決を望んできた。新井満さんとは3年前にようやく話し合いが実現した。
このサンルームに彼がやってきて、ぼくの知人も同席するこのテーブルに両手をついて新井さんは謝った。そして、
「南風椎の本がなければ自分があの詩に出会うことはなかったし、本も歌も作れなかった。これからは取材のときも講演でもそのことをかならず最初に言います」
と約束したので「あなたを許します」と、ぼくは彼を許した。
成熟した大人として、いい解決ができたと思った。

問題はその後彼が約束をちっとも守っていないことが、わかってきたのだ。
約束を守っていないということはあのときの謝罪も、その場しのぎの口先だけのものだったに違いない。
昨年11月にこの不連続連載を始めて、ことの経緯を公にしてきたのは、そのためだった。
3月にはテレビ番組で約束を守っていない新井さんの姿を自分の目で確認し「恥知らず、としか言いようがない」とtwitterでつぶやいた。
最近では、来年から使われる小学校の国語教科書に「約束を守っていない」新井さんが出ている、と匿名の方がコメントをくれた
情報をありがとうございます。
版元の「学校図書社」に問い合わせて、読ませてもらおうと思っています。


今日の図版は、The Magazine of ART(1885) より。
喧嘩両成敗なんて題の日記に何の絵を使おう、と思いながらそばにあった昔の分厚いアート雑誌をバサリと開いたら、そのページにこの版画が現れた。
そんなことって、よくあるよね :-)


                       (続く)







『シリウスの道』

2010.05.15 Saturday

『1000の風』と『千の風になって』 2で藤原伊織さんのことを書いたとき、kahoruさんという方からコメントをいただき、いくつかのやりとりをした。藤原作品の愛読者であるというkahoruさんはこんなコメントを書いていた。

「『シリウスの道』での個人攻撃には、正直、やや引いていたところもあったのですが、これでようやくナゾも解けたというか-----、そんなことがあったのですね。
恨みもあったと思いますが、今回、南風さんがはらしてくださったのではないでしょうか?」

藤原伊織さんは2002年の秋に電通を退職し、2003年から2004年にかけて『シリウスの道』を週刊文春に連載し、2005年に単行本化して、2007年に亡くなった。
ぼくは読んでなかったので、今回はじめて単行本(文藝春秋)で読んだ。

舞台は電通をモデルにした広告代理店。藤原さんの分身と思われる大阪出身の広告マン、辰村が主人公だ。同じ代理店の社員で、曽我部というイベントプロデューサーも登場する。曽我部は著書をたくさん持ち、多くの講演をこなしている人物だ。
あるシーンがぼくには印象的だった。
会社のエレベーターホールで辰村は、両手をポケットに入れた曽我部と一緒になって、会話をかわす。そしてふたりきりでエレベーターに乗り込んだとき、辰村は曽我部と同じように両手をポケットに入れる。「手をだしていると殴りたい衝動を抑える苦労が予想されたためだ」

あの温和な藤原さんが、こんな烈しい怒りをもつことがあるのかと驚いた。
そして「両手をポケットに入れたイベントプロデューサー」という描写を読んで、一枚の写真を思い出した。

    

ぼくの『アートワークス』の創刊記念パーティでのスナップ。
左から新井満さん、福武書店(当時)のNさん、藤原伊織さん。
まだ芥川賞作家、直木賞作家になる以前のふたりが写っている。

『シリウスの道』は藤原さんらしく切れ味のいい文体の、面白い企業小説だった。それ以外にもさまざまな発見のある小説なので、ご一読を薦めたい。

本を読み終えてすぐにぼくは「タンゴはひとりじゃ踊れない」(4/24)というブログを書き「自分のホームページで反論する」と言っていた新井さんの「反論」をまだ読めずにいることを新井さんに語りかけた。
新井さんのホームページには「マンダーランド通信bbs」という掲示板がある。
ぼくのブログに一日13万近いアクセスがあったころ、この掲示板に南風椎のブログを読むように勧めた書き込みが相次いでいた。数日後管理人氏は「ネット落ちします」と宣言して、管理をやめ、アップデートされなくなり、以来ひと月半放置されたままだった。
それが「タンゴはひとりじゃ踊れない」を書いたまさにその日に、掲示板がまるごと閉鎖されてしまった。理由はわからない。

同じ日のブログでぼくは新井さんにtwitter上での対談を申し入れた。
3週間待ったが、返事はまだない。


                     (続く)





イノシシになれなかったイヌ

2010.05.12 Wednesday

イラストレーターの藤井康文さんが遊びにきた。

「キャッチボールでもしましょうよ」と、前から約束していたのだ。

あいにくの小雨だったがグローブやボールも持ってきてくれていたので、短い時間だったけどひさしぶりのキャッチボールを楽しんだ。いいもんだね。

そのあとは家の中で藤井さんに「ラビの思い出話」をしてもらった。ラビは藤井さんご夫妻が10年間人生を分け合っていた白いイヌの名前だ。

毎年お正月にはその年の干支に扮したラビの年賀状が届くのが楽しみだった。


 

  


事情を知らない人がこういう写真を見ると「動物虐待だ」と目を三角にして怒りかねない。だから、ラビと藤井さんご夫妻との信じられないほどの麗しい関係を知る人たちにだけ送られていた年賀状だった。


「イヌ年にはラビはどんな扮装をするのだろう?」と友人たちは語っていた。

イヌ年のお正月の年賀状では、ラビは横たわっていて、そばにイヌのぬいぐるみが置かれていた。だいぶ前からラビが容態を悪くしていることは聞いていた。ご夫妻がまるで実の母親の介護をするように面倒を見ていたことも知っていたので、みんなラビの恢復を祈っていたが、その年ラビは亡くなってしまった。翌年イノシシ年のお正月にラビの姿を見ることはできなかった。


このブログを読んでいる方でもしmixiもなさっている方がいたら「ぽこぺん」というハンドルで日記を書いている人を探してみてください。

藤井さんご夫妻がどのようにしてラビと出会い、どのように暮らしていたか、素晴しい話を読むことができます。







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ツツジはどうしてこんな漢字なのか

2010.05.10 Monday

         
ワープロの変換がなければとても書けない字だ。
「ツ・ツジ」なのか「ツツ・ジ」なのかもわからない。5,6年前にそんな疑問を抱いて検索したことがあった。収穫はほとんどなかった。
エラ・フィ「ッツジ」ェラルドなんて言葉がヒットされて、このジャズボーカルの女王の名前の中にひっそりと咲いているのを発見できたくらいだった。

今回また同じ疑問を抱いて検索してみたら、続々と出てきた。
検索エンジンの進化のおかげか、ネット上の情報が激増したおかげか、たぶんその両方の理由で、ようやく納得のいく答に出会えた。

昔、中国で羊が毒のあるツツジを食べて足ぶみをしてもがき苦しんだことから「躑躅(てきちょく)」という漢字があてはめられたのだそうだ。

庭で各種のツツジが盛りを迎えている。

 





一周年

2010.05.06 Thursday

お祝いが届いてはじめて気がついたのだけど、5月3日にこのブログはオープン一周年を迎えていた。一年前、もう少し遅い時期にオープンする予定だったのに、忌野清志郎さんの訃報を聞き、どうしても彼にお礼を言っておきたくて始まったブログだった。「忌野清志郎さん」という追悼日記で始まったことが、この一年間を象徴しているようだ。

その後会田晃さんを追悼し、ぼくの兄を追悼し、最近では沢田としきさんを追悼した。それぞれの命日のあたりには亡き父やジョン・レノンやジェリー・ガルシアに語りかけていた。勝新太郎さんに話しかけたこともあった。
こんなふうなブログになっていることに途中で気がつき、加藤和彦さんや森繁久彌さんへの追悼日記は自粛した記憶がある :-)

ついには『1000の風』と『千の風になって』という連載日記を始めて、想像を超えたとてつもない数の人たちが読みにきてくれた。この連載はまだ終わっていない。
『感謝する死者』の物語も広く伝わってくれたようだ。

      

京彩さん、お祝いの花、ありがとうございます。


                      (続く)



日本国憲法 前文

2010.05.02 Sunday


日本国憲法 前文   南風椎 訳 



私たち日本人は 

正しく選ばれた 

国会の代表者たちをとおして 

行動します。 



私たち日本人は 

すべての国々との 

平和的な協力によってえられる実りと 

この国土いっぱいに 

自由がもたらしてくれた恵みを 

かたく守っていくことを決心しました。 

私たち自身と子孫たちのために。 



私たち日本人は 

政府によっておこされる戦争の恐怖を 

もう二度と 

私たちのところにやってこさせないことを 

決意しました。 



私たち日本人は 

人々こそが最高の力をもつことを 

宣言します。 



そして私たち日本人は 

揺るぎない意志で 

この憲法を制定します。 



政府は 

人々の神聖な信頼によるものです。 

その権威は人々から出され 

その力は人々の代表者たちによって行使され 

その利益は人々によって楽しまれます。 



これは人類すべてがもつ原則であり 

この憲法は 

その原則にもとづいています。 

私たちはこれに反する 

どのような憲法 

どのような法令 

どのような詔勅も排除します。 



私たち日本人は 

永遠の平和を願います。 



私たち日本人は 

人と人との友好関係を支配している 

高い理想を 

心から自覚します。 



私たち日本人は 

平和を愛する世界の人々の 

正義と信念を信じて 

私たちの安全と存続を 

守っていくことを決めました。 



平和を守り 

専制政治や奴隷制、圧制や偏狭を 

地球から永久に追放しようとしている国際社会で 

私たちは 

誇り高い地位を占めたいと願っています。 



世界中の人々が 

恐怖も欠乏もない 

平和な暮らしをする権利を持っているということを 

私たちは認識しています。 



どのような国でも 

自分の国のことだけを考えてはいけない、という 

政治道徳の法則は 

誰にもどこにでも通用するものだと 

私たちは信じています。 



自分の国の主権を保ち 

他の国々と対等な関係をもとうとする 

すべての国にとって 

この法則に従うことは義務なのだと 

私たちは信じています。 



私たち日本人は 

国の名誉にかけ 

全力をあげて 

これらの高い理想と目的を 

達成することを誓います。 





1994年に上梓した『日本国憲法 前文』(三五館)の全文です。 

70年代にヒッピー学生だったぼくがシカゴの書店で、日本を紹介している分厚い本を読んでいたとき、はじめて『前文』の英語原文を読みました。 

それまで日本語では読んだことはあったのですが、難しい言葉遣いだったせいか、正直言ってよくわかっていませんでした。ところが英語による『前文』は、びんびんと心に届いてきました。 

(まるで『イマジン』みたいな文だな)と思いながら、書店の床に座って読んだ記憶があります。そのころ、ジョン・レノンの『イマジン』は60年代の闘いの日々に疲れた人たちの気持ちを癒してくれているかのように、ラジオからよく流れていました。 


それから20年たって、英文原文を翻訳して出版するチャンスが訪れました。 

それが上の文です。原文はワンセンテンスが長すぎるものがいくつもあったので、センテンスを短く区切って訳していますが、意味は変わっていません。 

日の出、落雷、蜃気楼、噴火、桜吹雪、富士の彩雲など、日本の美しい自然現象の写真をそえて編集しました。 


2010年、憲法記念日前日に。





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プロフィール
本名・長野眞
フライ・コミュニケーションズ代表

1948年生まれ。1971年上智大学を卒業後、新聞記者、コピーライターの仕事を経験し、シカゴに留学。帰国後「日本国憲法」(小学館)を共同編集したことで本を作る楽しさを知り、北山耕平とともにフライ・コミュニケーションズを設立。斬新でユニークなアイデアと感性で、数多くの作品を企画、編集、執筆する。2009年世界にたった一冊の本をつくる「ニュー・グリーティングブックス」のHPを開設。10年間横浜の小さな森の中で自然とともに暮らし、現在は鎌倉の海辺で閑かな日々を過ごしている。
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