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2016.01.17 Sunday

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春節 2012

2012.01.24 Tuesday

花がほころび始める旧正月(春節)の方が初春を祝うのにふさわしい。
そう思って新年の挨拶は春節にやることに決めていた。
しかし今年は身辺が何やかやと気ぜわしくてすっかり忘れていた。

昨日の春節の夜、雪が降り、朝は一面の雪景色に驚かされた。
「季節感をけっして忘れないように」というメッセージだね。
今年は初めての新月が早かったこともあって、まだ梅一輪見ていない初春だ。

朝の光を浴びて西の方角に、雪景色の彼方に、一瞬だけ富士山が顔を見せた。

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Gooooooooooooood morning!!!!!!!!!

あなたの2012年が輝かしいものになりますように。



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果樹園コミューン

2012.01.20 Friday

70年代のはじめに大学を出たぼくは、新聞社に勤めた。就職してすぐに自分が会社勤めに向いていないこと、その能力がまるっきりないことがわかった。
そこで学生時代の友人たちに呼びかけた。仲間のひとりが秋田にりんごの果樹園をもっていたので、そこでコミューンをやろうというものだった。
とりあえず「果樹園」というタイトルの同人誌を作り、6人の仲間から原稿を集めてコピーして綴じた、限定6部で刊行をはじめた。
そのうちの一冊「第4号」が、引っ越し準備の作業中に出てきた。「奥付」によると72年の5月に出ている。責任編集がぼくで、表紙の絵、デザインもぼくがやっている。

表紙の絵がアップル・コンピュータのマークによく似ているのに笑ってしまった。
と言うのも最近読んだスティーブ・ジョブスの伝記で、彼も同じころにオレゴン州でりんごの果樹園を作ろうと夢見ていたことを知ったからだ。

    kajuen*.jpg

今週末に「果樹園」のメンバーだった伊藤保之が引っ越しの手伝いにきてくれる。来週は青山功が5度目の手伝いにきてくれるし、河野辰也は泊まりがけで手伝ってくれるそうだ。秋田在住の石川耿一と病を抱える加藤信行はこれないけど、応援してくれているはずだ。

ジョブスはりんごの果樹園作りには失敗したが、その後アップル・コンピュータを作って、世界一の企業に成長させた。
ぼくもりんごの果樹園コミューンを作ることには失敗したけど、そのかわり40年以上続いている、かけがえのない仲間をもつことができた。それはそれで偉大なことを成し遂げたのではないだろうか。





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なんと呼ばれようと豚汁

2012.01.19 Thursday

今日は比較的暖かいようだけど、底冷えのする日々が続いた。
先日の「引っ越し手伝いの集い」にきてくれた友人たちのひとり、武京子さんが来訪。
なんでもお母さんに「南風さんに豚汁でも作ってあげたら」と言われたとかで、大きな鍋においしい豚汁をいっぱい作って帰っていった。
ぼくの豚汁好きがどうしてわかっちゃったんだろう。

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昔、何年も日本を離れていて帰ってきたとき、友人たちと渋谷で会った。
食事をすることになりぼくは「定食屋にいきたい」と頼んだ。そういうものに飢えていたのだ。今と同じような寒い季節だった。壁のメニューからぼくは迷わず「豚汁定食」を選び、注文をとりにきたおばさんに「ブタ汁定食をください」と言った。
友人たちがどっと笑った。
「トン汁だろ? お前、日本語忘れちゃったの?」と言う。
そばにいた女性客たちも「あのおばさんの顔見たら、ブタって言っちゃうわよね」とささやいて笑っていたのを憶えている。
トン汁? そんなの重箱読みじゃないか、と思ったけど、議論はしなかった。

その後調べたら、地方によって「トン汁」「ブタ汁」と呼び方が違うらしいことがわかった。子どものころから全国を転校していたので、ぼくの「豚汁言語」のルーツがどこにあるのかわからない。この日記を書くにあたって姉に電話で聞いてみたところ、わが家はどうやら「ブタ汁」と呼んでいたらしい。

みなさんの地域ではなんと呼んでいるのだろう。
きっとぼくが知らない呼びかたもあるに違いない。
こういうバラバラさが生き延びているのって、いいね。
この国のマスコミはSteve Jobsの表記を突然「ジョブズ」に統一してしまったように、いつもみんな仲良くご一緒に、みたいな無気味なところがあるけど「豚汁」はまだそんなマスコミの被害に遭わずに、多様性を保っているようだ。

なんと呼ばれようと、豚汁は豚汁。その美味さに変わりはない。


なんと呼ばれようとバラはバラ。その美しさに変わりはない。

--------  シェイクスピア


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人生で一番たいせつなもの

2012.01.16 Monday

なんとなく、という感じで友人たちが集まってくれた。
引っ越し準備に困っているぼくを助けにきてくれたのだ。

ヘルプがこれでもう4回めになる、学生時代からの友だち。
コピーライター時代の同僚だったイラストレーター。
アートワークスの常連で反核運動に熱心な芸術家。
昨年の本『瞑想750年』を装丁してくれたデザイナー。
西丸文也の旅立ちを見届けてくれた写真家。
現在闘病中の北山耕平の講演を手助けしてくれていた女性。
映像作家の女性が最年少だった。
これにネット上で「がんこ親父」として知られる人物が、2年前に壊れたジュークボックスの修理で参加してくれた。
ぼくの人生ではバラバラの時代のバラバラな友人たちなのに、話してみるとみんなそれぞれ不思議な縁でつながっていて、たのしい集まりになった。

しばらくするとジュークボックスの方から歓声があがり、音楽が聞こえてきた。信じられない。もう直ったのだ。駆けつけると、CSN&Yの"Carry On"が大音量で流れていた。

Carry on, love is coming,
Love is coming to us all.

 jukebox 1**.jpg

雑誌編集者の仕事をやめてコロッケ・レストランを開いたことがある友人が、自慢のコロッケを大量に揚げてみんなにふるまってくれた。
木机をふたつ分解して焚き火で燃やし、大きな火を囲んでコロッケや持ち寄ってくれたおにぎりや寿司を食べてビールを飲んだ。
寒い日だったけど、焚き火の遠赤外線がからだの芯まであたためてくれた。
この森の家で開く、これが最後のパーティだろう。

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Photo by Kyoko Take

作業を終えたあとも家の中に入って、夜がふけるまで宴が続いた。
みなさん、ありがとう。
おかげで引っ越しの懸案だったことがいくつもいっぺんに片付きました。

もつべきものは友。
人生で一番たいせつなものは友情。それを再確認した日だった。


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熾きができるまで

2012.01.12 Thursday

このブログでは以前にも『焚き火』という日記を書いたことがある。
10年前にこの森で焚き火をはじめたころ、年長の先輩たちが口々に「燃やしはじめは厄介だけど、熾(お)きができれば楽になるよ」と教えてくれた。
その熾きというのが何だかさっぱりわからなかった。
どうやら炎のエネルギーがある臨界点に達して、そこから先は剪定したばかりの太い生木でも平気で燃やしはじめる。理屈としてはそういうことらしいのだけど、感覚としてはまったくわからないでいた。
ずいぶん月日がたったある日「あっ、今、熾きができた」とわかったのだ。
理屈ではなく、アニマルとして本来持っていた感覚が甦ったような瞬間だった。
「熾き」を知ってからは炎といいコミュニケーションがとれるようになった。
熾きができるまでは大変。仕事であれ恋愛であれ、同じだね。

引っ越しに備えて木製の本棚を分解して、焚き火にした。
この森であと何回焚き火ができるかわからないので、写真に撮っておくことにした。夜明け前に燃やしはじめて、終わるころには明るくなっていた。背景に、無惨に切られてしまった木々の一部が写っていた。

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好きだったステッカーを昔本棚の横に貼っておいたのだけど、それも一緒に炎に包まれていった。

THERE'S NO GOVERNMENT
LIKE NO GOVERNMENT

無政府ほどいい政府は他には無い

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昔好きだったメッセージだが、今でも(今だからこそ)心に響くね。
近く森を出たら、新しい土地での生活が始まる。
熾きができるまでは、大変かもしれないな。


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土光敏夫と原発 3

2012.01.10 Tuesday

ぼくがこの森に入って間もないころ、土光敏夫宅の整理を手伝ったことがある。
二階の押し入れの雑貨を片付けていたら、一本の円筒が出てきた。中を開けてみてびっくりした。土光に授与された「勲一等旭日桐花大授賞」の賞状(?)だった。昭和天皇のサインのあるものが額装もされず、押し入れに無造作に放りこまれていたのだ。
叙勲されるのをずっと嫌がっていたとは聞いたことがあったが、噂はほんとうだったのだ。
なんてかっこいい人だったんだろう、と感動したほどだった。
これはその後家族の手で額装されたらしく、今回肖像画類が運びこまれたとき一緒にぼくの家に運ばれてきて、今もここにある。
今回はじめて知ったのだけど、叙勲は中曽根康弘が総理のときに行われたのだね。

  shojou**.jpg

中曽根は「原子力の平和利用」というアメリカの意向を受けて、原発推進の先頭に立ってきた政治家だったし、土光をその仲間に引き入れた人物だった。
そもそも岡山の貧しい農村を出て、財界のトップにまでのぼりつめた土光は、母親からの教えである「個人は質素に、社会は豊かに」を終生守り抜いた人だった。
「安全で安価でクリーンなエネルギー」と謳われていた原発に「国民の暮らしのために」飛びついたのも無理はない。
中曽根は「土光行革」の生みの親でもある。
こんな政治家たちに徹底的に利用されたという点で、お気の毒な経済人だった。

「東芝はつぶれても、原発をつぶしてはいけない」と土光に語らせたその東芝は3.11の前後の時期に、空前の利益をあげていると発表された。そしてその後、東芝は代替エネルギーの開発に方針転換するとも報じられた。
中曽根も3.11以降、原発推進を反省するような談話を出したらしい。

土光敏夫はあの叙勲の2年後に没した。
死んだ人間はもう考えを変えることはできない。
土光行革のころ彼が語った印象的な言葉がある。
「俺は5,6年もしたら地獄の釜の底にいるだろう。10年先、20年先の日本を動かすのは若い君たちじゃないのか。俺はその時日本を君たちがどう動かしているか、地獄の釜の底から見ているぞ」

3.11によって、日本という国家自体が地獄に転げおちかねない状況の現在を、土光敏夫は地獄の釜の底からどのように見ているのだろう。


(『土光敏夫と原発』の連載はこれで終了します)



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土光敏夫と原発 2

2012.01.06 Friday

経団連の会長時代に、土光敏夫は財界クラブの記者団を福島原発に連れていき、安全性を説明したことがある。冷却水が海水を汚すことはありませんか? という問いに対し、
「冷却水は原子炉の水とは全然区分され、二次的に廻って冷却するだけで、冷却水が原子炉の中の水と混じることはない構造になっている。そこで、二次冷却水のパイプに仮に穴があいても、圧力差で放射能の含まれている水は、冷却水に入ってこないから心配ない」
と答えている。爆発の危険性については、こう答えた。
「もし自動制禦装置が故障して原子炉の運転が続けられてしまった場合、炉心の水が全部蒸発してしまう。水が蒸発してしまえば、自然に核分裂は起こらなくなって、原子炉は活動を停止するので、安全だ」

人類史に残る3.11の大事故のあとの、原子力発電についての知識を十分に得たあとの日本人にとってはまったく机上の空論にしか聞こえないが、当時随行していたスタッフは、
「土光さんのようなエンジニア出身の人物は記者団にも経団連事務局にも一人もいなかったので、土光さんの原子力発電に関する博学さに感銘していた」と書きのこしている。

さらに「東芝はつぶれてもいいが、原発をつぶしてはならない」という発言もしている。
財界の大物がそこまで言ってくれたことで、原発推進派の政治家たちが大いに勢いづいたとも伝えられている。

    portraits*.jpg

土光敏夫宅が取り壊される直前に、彼の肖像画や肖像写真が大量にわが家に運びこまれた。
功なり名を遂げた人物が大きな肖像画に描かれていた時代がつい最近まであった、ということに思いを馳せながら、絵や写真を眺めている。


                        (続く)



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土光敏夫と原発 1

2012.01.04 Wednesday

年末から年初にかけてぼくのブログ『森はまだ生きているのだろうか』に大量のアクセスがあった。影響力のある人のブログで紹介されたのがきっかけのようだ。
ぼくのは7月のブログなので読み直してみたが、訂正する点は何もなかった。
その後『森を出ていこう』という日記も書いている。
森が森でなくなってきたことが近くここを出ていく最大の理由だが、出ていく理由はそれだけではない。そのうちのひとつを書いておこう。

森の中のこの家は、実は土光敏夫が住んでいた敷地の一角にある。
このブログのトップ写真のサンルームでぼくが座っている黒い椅子は、土光敏夫が生前座っていたロッキングチェアなのだ。
日記をずっと読んでくれている人たちはご存知だろうけど、ぼくは昔から「反原発」を貫いてきた。(サイドバーの<Nukes>というカテゴリーを読んでください)でも、日本が原発行政を推進していく上で土光敏夫が決定的な役割を果たした人だったことは、まったく知らなかった。3.11以降に初めて知ったことだ。
不勉強を恥じ入るしかない、

  house*.jpg  house 2*.jpg

 house 3*.jpg  house 4*.jpg

2011年の夏、土光敏夫が住んでいた家が取り壊された。
現在は跡地にマンションの建設が進められている。
TVや雑誌が「土光家の家の崩壊」を報じていたが、相変わらず「メザシの土光さん」「第二臨調の土光さん」という報道ばかりだった。2011年の夏だというのに「土光敏夫と原発」を語った報道をぼくは目にしなかった。

「ぼくが何か書いた方がいいのだろうか」と、友人の北山耕平に相談したら「拡散に協力するからぜひ書いてよ」と言われた。ところが北山耕平が病に倒れたため、のびのびになってしまった。(北山の病状を心配なさっている方たち、彼は東京に戻ってリハビリ病院で歩行訓練などをはじめました。心の中で応援してあげてください)

「土光敏夫と原発」は何回かの連載になります。


                       (続く)


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プロフィール
本名・長野眞
フライ・コミュニケーションズ代表

1948年生まれ。1971年上智大学を卒業後、新聞記者、コピーライターの仕事を経験し、シカゴに留学。帰国後「日本国憲法」(小学館)を共同編集したことで本を作る楽しさを知り、北山耕平とともにフライ・コミュニケーションズを設立。斬新でユニークなアイデアと感性で、数多くの作品を企画、編集、執筆する。2009年世界にたった一冊の本をつくる「ニュー・グリーティングブックス」のHPを開設。10年間横浜の小さな森の中で自然とともに暮らし、現在は鎌倉の海辺で閑かな日々を過ごしている。
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